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18才の職人、誕生

社長になって儲けたい。

私、大川祐介が18才でこの業界に入ったのはこの思い、ゆえです。きっかけは、ある日、何気なく手にした読売新聞でした。見出しに大きく「これからは新築よりもリフォームの需要が増える」と出ていた。見た瞬間に、体で感じました。これからはリフォームの時代だ、と。なんとしてでもその業界に入ろう。そう考えました。矢も盾もたまらず、すぐに知り合いの不動産屋に「どこかリフォームの会社を知らないか」と問い合わせて、紹介してもらったのがクロスの張り替えを手がける業者です。

つつじヶ丘にあったその会社には、自宅がある稲城から毎日30分、自転車をこいで通いました。なにせお金がなかったですからね。丁稚奉公なので、給料は30日間フルで働いて10数万円。しかし、手に職をつけて、なんとしてでも稼ぎたかった。そして、いずれは社長になりたかった。我ながら必死でした。

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いきなりの独立宣言

仕事は家に戻ってからも続きました。

現場で体得した技術を家に戻ってから「おさらい」したんです。アパートの壁を壊しては作り変える。壁紙を剥がしては新しく張る。この作業をいったい何度繰り返したことか。

しかし、回数をこなすうちに、仕事をこなすスピードは確実にあがりました。そうなると、現場での評価も高まるんですね。「大川、やるじゃないか」と褒められればうれしくないはずがない。だから、また練習を繰り返す。大川祐介に任せてもらえる仕事がどんどんと増えてきました。

こうなると仕事が楽しくて仕方がなくなります。毎日、深夜まで仕事をしました。当時はお金がなかったから、お昼ごはんもろくに食べてなかったですね。食べてもせいぜいおにぎり2個程度。週に1回、ラーメンを食べるのがちょっとした贅沢でした。遊ぶことなんて思いもよらず、とにかく働き続け、ついには先輩がやっている仕事も難なくこなせるようになりました。

おかげで給料もどんどんアップし、20才の頃にはかなりの額をもらえるようになっていましたが、私と同じぐらい仕事ができる先輩の給料の額とはずいぶん開きがあった。そこで、居酒屋で給料を上げるにはどうすればいいのかと社長に相談したんです。

その結果わかったのは、どうやらここでがんばって働き続けても、先輩と同じ額をもらうにはずいぶんと時間がかかりそうだ、ということです。

どんなに時間が必要でも、ここに残るべきなのか、あるいは…。大川祐介、おまえはどっちの道を選ぶのか。自分自身に尋ね、考えた末の結論が「独立」でした。

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道具は確保したものの…

「独立します」

こう宣言して、私、大川祐介は会社を辞め、会社を設立しました。

当時の社名はユニオン企画。しかし、独立したのはいいけれど、当然ゼロからのスタートです。仕事もなければ、道具もない。何から手を付ければいいのだろうか。まず、必要なのは道具だろうと、私は狛江にあった現金問屋に出向いて、材料や道具を確保しました。

よし、これで仕事がいつ来ても対応できる。次にやったのが、チラシ配りです。

「クロス張り 1平方メートル当たり1000円 床・クッションフロア 1平方メートル当たり2800円」という料金表と連絡先をプリントしたA4の紙を印刷して配り、さらに多摩地区の不動産屋に飛び込みで営業しました。

結果は惨憺たるものです。1ヶ月チラシをまき続けましたが、反応はゼロ。文字通り、一件もなしです。問い合わせすらなかった。日を追うごとに焦りが増していきました。

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「薬局、作れる?」

独立後の最初の仕事は思わぬところから舞い込みました。知り合いに連れて行ってもらった稲城のスナックに来ていた客の一人が大工で、6畳一間のアパートのクロスの張り替えを8万円でやってみないかと声をかけてもらったんです。

初めて飛び込んできた仕事です。一も二もなく、「やります」と即答し、仕事に出向いてクロス張りを終わらせると、次に3万円でクリーニングも依頼されました。独立から1ヶ月。ようやく11万円の収入を手にしたときには感激しましたね。

しかし、そこからはまた以前の日々に逆戻りです。チラシを撒き、飛び込みで営業をかけても仕事はまったく入らない。まずい。このままでは食べていけなくなる。窮地を救ったのは、またしても人との出会いでした。

知り合いに誘われた出かけたフィリピンパブで、「デュエットしよう」と誘ってきた50歳代の男性と一緒に歌い、飲んだんです。私は普段カラオケには行かないので、デュエットと言われても何を歌っていいのかわからない。この男性がかけた曲は、加山雄三の「僕の妹」か「みちのくひとり旅」だったかな。適当に歌に合わせて口を動かして、なんとかデュエットが終了したところで名刺交換をすると、その男性は薬局をチェーン展開している会社の専務でした。

すかさず「仕事、ください」と携帯電話の番号を交換した1週間後。本当に電話がかかってきました。「大川君。薬局、作れる?」。仕事の依頼の電話でした。

「できます」「やらせてください」。店舗を手がけたことなど一度もないのに、気が付くと私はそう答えていました。

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できないなら、できるようにすればいい

当時の私は壁や床は作れても、店を一軒作るのに必要な技術や知識はまったくありません。下地のことも知らないし、水回りやドア、サインのこともわからない。保健所関連の知識も皆無です。

しかし、「チャンスは逃すな」が大川祐介の信条。できないなら、できるようにすればいい。まずは物件を見に行き、タウンページをめくって、地元でガラス屋やガス、給排水を手がける会社をあたりました。どんな業者を手配すればいいかの知識はあったので、あとは業者を確保するだけです。電話帳で良さそうな業者を見つけては電話をかけ、仕事の依頼をして、必要な業者を手配しました。

しかし、図面を描く設計士は仕事の核ともいえる部分なので、電話帳であたるのはちょっと不安があった。じゃあ、どうするか。幸い、知り合いのつてでキャリア20年のベテラン設計士を紹介してもらうことができました。

その人に現場を見てもらうと、すぐに承諾の返事をいただいたので、見積を出し、晴れて正式に仕事を受注できました。いま思い返しても、この設計士は本当に親切な方でしたね。「大川君。わからないことがあったら何でも聞いて」と言ってくれました。この人に任せたら店は完成させられる。最初にそう確信しました。

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店を一軒作る、そのプロセスに魅了された

店舗づくりは初めての経験でしたが、無事に完成させることができ、依頼してきたお客さんも喜んでくれました。この仕事で請け負った金額はトータルで450万円。床と壁を張っただけの私の取り分は20万円でしたが、自信がついた上に、何もないところから店を一軒作るというプロセスは無性に楽しかった。

と同時に、もっともっと勉強したいと思いました。わからないことは職人や業者さんに教えてもらいましたが、そうしたことも全部自分のものにしたくなった。自分にはない知識と技術を吸収したい。猛烈にそう思いました。

この時に作った薬局は今はもうありませんが、この時の経験が大川祐介を変え、後の会社の方向性を大きく左右することになったのです。